2013年、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。
サンクトガーレンは今年20周年で10周年。
なんのことやら?という方が多いと思うのですが、それを説明するにはサンクトガーレンのちょっと複雑な歴史を紐解いていきましょう。
お酒を造るには免許が必要です。
サンクトガーレンは 3回 4回(1月5日追記あり)もその免許を取得した珍しいビール会社です。
(普通の会社は1回だと思うので、もしかすると国内最多かもしれませんね)
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1回目のビール醸造免許取得はアメリカ、サンフランシスコで。
その当時、日本でビールの醸造免許を取得するには年間2,000KLのビールを造って、売る必要がありました。
簡単に言えば、年間2,000KL分のビール酒税を納められればビール造ってもいいよ、ということ。
2,000KL。
ピンと来ないと思いますが、大瓶換算で1日で8,700本のビールを造って、売らなければいけない計算。
小さな会社には到底無理な数字。
つまり、当時日本では小規模のビール醸造が許されていませんでした。
だからサンクトガーレンはアメリカで免許を取って、造って、日本に逆輸入して販売。
その免許を取得したのが1993年。今年で20周年という訳です。
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日本人がアメリカでビールの醸造免許を取得してビール造りをはじめたニュースはTIMEやNEWSWEEKで話題となります。
「なぜ日本人がアメリカでビール造りをはじめたのか?」
「それは日本でビールが造れないからだ」
この問答は日本の産業規制の象徴として取り上げられるようになります。
このニュースは次第に日本のメディアでも話題に。
世論は次第に“日本人がアメリカでビール造りをせざるを得なかった”状況に疑問を呈しはじめます。
そして1994年。
産業規制緩和の目玉の1つとしてビール醸造免許取得のための基準が大きく緩和されます。
これがいわゆる「地ビール解禁」。
サンクトガーレンがサンフランシスコでビール醸造を開始した翌1994年のことでした。
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日本で小規模ビールが造れるようになったと言っても、サンクトガーレンはサンフランシスコで醸造をはじめたばかり。
すぐに日本に工場を、という訳にはいきませんでした。
でも、サンクトガーレンがビール造りをはじめたきっかけは「日本にエールビールを」この1点に尽きます。
日本でビールが造れるなら、日本で造ったほうが良いに決まっているのです。
満を持して1997年。サンクトガーレンは厚木に工場を設立し、ビール醸造免許を取得。
本格的に国内でのビール醸造を開始します。
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当初、サンクトガーレンは会社ではありませんでした。
サンクトガーレン事業部。飲茶会社の事業部の1つでした。
2001年会社全体の経営の行き詰まりにより、ビール醸造免許の更新ができなくなります。
ビールの醸造免許を保持するということは、ビール酒税を滞りなく納める能力があるかどうか、ということがとても重要です。
(その能力が無いと見なされれば、最悪免許が更新出来ないこともあるのです)
当時は地ビールブームの終焉もあり「ビールなんて儲からない。もう止めたほうがいい」という周囲の反対を押し切り、岩本(現サンクトガーレン社長)は1人でサンクトガーレン有限会社を設立。
それが2003年。3回目4回目(1月5日追記あり)のビール醸造免許取得、今年で10周年です。
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お陰様でサンクトガーレン有限会社になってからは経営も安定。
この6年で売上は10倍に伸びました。
サンクトガーレンには営業がいません。
この売上規模で営業がいない会社というのは相当珍しいのではないか、と驚かれます。
私たちが成長を続けられていけるのは、サンクトガーレンを支えて下さっている皆様のお陰に他なりません。
本当にいつも有難うございます。
そして、今年も宜しくお願いいます。
ちなみに免許は更新の必要が無い「永久免許」に切り替わっているため、これ以上の醸造免許取得は無いと思います(笑)。
※1月5日追記:サンクトガーレンの免許取得は4回でした。
地ビール解禁後の1995年。六本木の飲茶店(直営店)で醸造免許を取得し、そこに小さな醸造設備を入れてビールを造っていました。
今話題のブルーパブです。
ビールの免許は会社ではなく、場所におります。
そのため六本木の店で免許を取得していても、1997年厚木に工場を造る際には改めて免許を取得しています。
ちなみに六本木のそのお店は立ち退きで96年に無くなり、現在は六本木ヒルズになっています。
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