前編から時間が空いてしまいましたが、後編です。
日本のクラフトビールはなぜここまで普及したのか、を語るうえで欠かせないのがサンクトガーレンの歴史。
後半はここにスポットを当てます。
サンクトガーレンはもともと飲茶会社の一部門だった。
1988年、サンフランシスコに飲茶屋「カフェパシフィカ」OPEN
1989年、日米を往復する日々の中でカリフォルニアで初めて出会ったクラフトビールに衝撃を受ける。
これを日本でやりたい。どうしたら出来るのかと調べ始める。
国税局に聞くと「年間製造量2000KLをクリアー出来れば良い」と言われる。
つまりは年間2000KL分の酒税を払える能力があるなら造っても良い、ということ。
(ビールの酒税は1L220円なので、1年間で4億4千万円の酒税を支払う能力が必要ということ)
実質、新規の参入は出来なかった。
当時の国税局の資料には「小規模のビール醸造所の乱立は好ましくない」ということが書かれている。
一方のアメリカでは年間1000L未満のビール醸造は趣味で出来た。
1000L以上造るなら免許が必要だった。
1993年3月アメリカでビール免許取得。
カフェパシフィカを改造してビール造り開始。
それを日本でも売ろうとしたが、当時は輸入ビールもほとんど無い時代。
バドワイザー、ハイネケンくらいで、ギネスもまだ日本ではほとんど流通していなかった。
そんな中でいきなりアメリカからビールを持ってきて販売しても難しいだろうと思い、
1993年12月六本木の飲茶店を改造し、ノンアルコールビールの醸造を開始。
店内で醸造したノンアルコールビールと、アメリカから逆輸入したビールを販売。
日本のクラフトビールの扉が開いた瞬間だった。
先代の社長(岩本の父)が関根さんに営業に行ったことも(笑)。
1994年、TIMEに掲載。日本の産業規制の象徴。
「岩本のビール造りの夢はかなった。ただし場所は東京ではない。ここアメリカで。」と結ばれた記事。
それがきっかけになり、1994年日本で地ビール解禁。
でもサンクトガーレンは日本には来なかった。
アメリカではじめたばかりというのもあったし、
解禁されても日本の税制はなんら変わらずそんな状態で大手ビールと戦えるとは思わなかった。
アメリカではバドワイザーの酒税は1L28円なのに対し、小規模醸造のメーカーは1L13円。
小規模でも大手と戦えるようになっていた。
でもやっぱり日本でやりたい。と、1997年 日本(厚木)に拠点を移す。
販路の開拓はどうやって?
・自分たちの店(飲茶店)で
・地ビールブームに乗って
ブームの終焉とともに
・地ビールは高くてまずい
・地方のお土産物
というイメージが出来てしまった。
<以下、関根さんコメント>
百貨店時代、ビール嫌いの人をいかにビール好きにするかに苦心した。
ビール好きの人は、自分で情報を集めて勉強してビールを買ってくれる。
これまでビールを買ってくれていたギークの人が入手出来ないくらい売れたビールで、衝撃的だった。
メディアの力を知った。
だから、自分は今ビールのアドバイザーをしながら、テレビのエキストラ活動をしている。
いつかビールタレントみたいになれたら(笑)。
本日はビアセミナーのご参加誠にありがとうございました!特別ゲストのサンクトガーレン岩本社長をお呼びしてのセミナー&懇親会、とても盛り上がりました!
Posted by 麹町バル on 2015年8月30日
参加者の皆様、ありがとうございました!
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